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年甲斐もなく


「よお、吉羅。一緒に帰ろうぜ!」

 放課後だった。
 音楽科棟の廊下で、窓に寄りかかって本を読んでいた。
 彼は、姉を待っていた。
 声を掛けてきたのは三年の金澤だった。
「……金澤先輩」
「ひとりでなにやってんだ? 帰ろうぜ」
「姉を待っているので」
「美夜ちゃんはまだ練習中?」
「はい」
「第二セレも近いからなー」
 吉羅暁彦と目の前の三年生、金澤紘人は学内コンクールの参加者だった。
 そして、吉羅の姉・三年生の美夜も。
 美夜より先に練習を終えた暁彦は、彼女を待ってひとり、廊下にいた。
 金澤も練習室を使っていたのだろう。
「調子はどうよ」
 金澤は気安い調子で尋ねてくる。もともと、そういう気質だった。はじめて会ったのは、コンクール参加者の初顔合わせの時。
 へーー、美夜ちゃんの弟かー。
 姉のことを美夜ちゃんと気安く呼ぶのに、どこかむっとしたことを思い出した。
 同級生だから、当たり前のことなのだが。
「ライバルに手の内はみせませんよ」
「いやー、厳しいなー」
 吉羅美夜と吉羅暁彦は、この星奏学院の創立者の直系の子孫だった。
 だからこのコンクールに参加できたのだと、校内では囁かれている。
 暁彦はまだ一年生だった。
 だからこそよけいに、その囁きが大きく聴こえてくる。
 実力があるところを見せてやりたいと思っていた。
「暁彦。金澤君」
 声がした。
 振り返ると姉の美夜がいた。
「姉さん。待ってたよ、帰ろう」
 暁彦は手にしていた文庫を閉じた。
 美夜は、つと金澤のほうをみた。「何、話してたの?」というふうに。
「あ、いやー、一緒に帰らないかと思って。でも、いつも美夜ちゃんと一緒だもんな。じゃ、おれ、帰るわ」
 金澤は、そう言って、立ち去ろうとした。
「まって、金澤君」
 呼び止めたのは、美夜だった。
「えーと……私、これからお友だちと約束が……」
「そんな話聞いてないよ、姉さん」
 暁彦がぴしゃりと言った。
「あ、あのね。伴奏の子と買い物にいこうって。さっき、練習室で話してて……ごめんね、暁彦、待っててくれたのに」
「でも……」
「よーし」
 金澤が、暁彦の肩に手を置いた。
「ほら、お姉さんだってたまには女同士の話もあるだろうって。弟君は俺と帰ろう」
「うん、じゃあ、金澤君、また明日ね」
「ああ、美夜ちゃんも気をつけてー」
 美夜は二人に手を振った。
 その笑顔に仕方なく、暁彦も金澤と歩きだした。
 春にこの星奏学院に入学してから、登校はもちろん、暁彦と美夜はほぼ下校も一緒だった。
 帰る先が同じだから、といえばそうだが、もともと体の弱い美夜を暁彦が心配してのことだった。
 学内コンクールが始まっても、それは変わらなかった。
 
 
 春の夕暮れ。オレンジ色の空だった。
 街へと下るゆるやかな坂道を、暁彦と金澤は歩いていく。
「あれだなー。美夜ちゃんは優しいよなー」
 美夜の小さな嘘。
 暁彦も金澤もわかっていた。
 
 幼い頃から、同じくヴァイオリンを弾く美夜は、暁彦にとってライバルであり憧れであり一番身近な存在だった。
 いつも一緒にいるのが当たり前のことだったし、体のこともあって、そばにいるのが暁彦自身の役目だとも思っていた。
 そんな暁彦をまた、美夜自身も心配していることも、暁彦もわかっていた。
 せっかく高校にはいったのだし、もっとお友だちと遊べばいいのに。
 彼女の口からそういわれたこともあった。
 大丈夫だよ、姉さん。僕だって付き合いたいと思うやつがいればそうするよ。
 
 ただいないだけで。
 まだ惹かれる音に出会ってないだけで。
 吉羅美夜の弾くヴァイオリンの音色以上の。
 

「なんか食ってかないか、俺、腹へっちゃってよ」
「僕はすいてません」
「付き合えよー。声楽は腹減るんだぜー」
 金澤は声楽専攻だった。テノール。
「だったら、家で食事したほうがいいんじゃないですか」
「いやー、もたねー、全然もたねー。家、たどり着けないねー」
「……仕方ないですね」
 ふうと暁彦は溜息をついた。
 まあ、いいか。成り行きだ。
 美夜がわざわざ慣れない嘘までついて生み出したこのシチュエーション。
「いいですよ、どこいきますか」
 答えながら、暁彦は気がついた。
 そういえば、星奏にはいってから、姉以外の誰かとの帰り道は初めてかもしれない。
 そう、気がついた。
 
 ☆
 
「よお、吉羅。一緒に帰ろうぜ!」

 ノートパソコンのモニタから、吉羅は少しだけ顔をあげる。
 金澤がいた。
「それだけの用件なら、メールしてくれればいいじゃないですか」
「いやー、ちょっとこっちに用事あったからさ。で、どう?」
「そうですね……」
 エンターキーを押す。
 理事長室の壁にかかっている古くて立派な時計をみた。
 もうこんな時間か。
「まだ仕事おわらなさそうか?」
 ドアを開け放したまま、金澤は言った。
「もう少しですかね」
「そっか。じゃあ、俺、準備室にいるからさ。終ったら電話くれや。駐車場までいくから」
「わかりました」
 んじゃなーと白衣姿の金澤は、ドアを閉めた。
 モデムの光が点滅する。
 サーバからメールがダウンロードされる。いつものことながら、星奏学院理事長のアドレスにはメールが沢山届く。
 メールのタイトルから、至急の案件のものだけに目を通した。
 それでも7件もある。
 明日、午後からの大学での会議、来月開催の市の音楽祭について、教職員の補充、来年度の高等部の入学要綱のパンフレットのデザインの打ち合わせの日取りについて……。
 目の前の瑣末ごとだけではない。
 星奏学院の経営状況が、好転したわけではなかった。
 その改善のための改革を推し進めている。
 あと15分で終らせる。
 吉羅暁彦は、7件のメールのうち、速攻でリプを返さなければならない4件を抽出して、返事を打ち出した。
 キーボードの軽い音が響く。
 最近買った最新型の新しいマシンだった。
 これまでは、自宅でも仕事場でもB5のノートパソコンを使っていたのだが、持ち歩くのが面倒になったので、理事長室用に先日新しいものを購入したのだった。
 車で通勤しているのだから、ノートパソコンの一台や二台、持って歩くのはそうたいしたことではないのだが。
 
 よお、吉羅。一緒に帰ろうぜ!
 
 これは、「呑みに行こうぜ」という意味だ。
 呑みにいく時は、車を繁華街近くの駐車場に預けるし、ノートパソコンを持ち歩くのも心元なかった。
 別にそれが最大の理由ではなかったが、新しいこのマシンはキータッチも軽やかで、気に入っていた。
 
 まだ高校生だった。あのコンクールが終った後も、吉羅暁彦と金澤紘人は時々、帰宅を一緒にしていた。
 何をするってわけでもない。
 吉羅はいつもヴァイオリンケースを持っていたので、どこかで羽目をはずして遊ぶわけではなかった。
 CDショップや楽器店を覗いたり、公園でふらふらしたり、たまにはファーストフードにはいってアイスコーヒーを飲んだりした。
 何を話したってわけでもない。
 学校であったことや、教師に関する冗談や、音楽の話。
 ごく普通の高校生らしく、そして音楽科の生徒らしい帰り道だった。
 何を話したのかなんて覚えていなかった。
 遠い昔の話だった。
 
 吉羅暁彦は、四件目のメールを送信した。
 12分。自分の立てたささやかなハードルをクリアしたことに満足する。
 マシンの電源を落とす。
 ぱたんと、ノートを閉じた。
 立ち上がった。
 今日の仕事は終わりだ。
 理事長となってまだ日も浅いが、すでに吉羅暁彦は理事長としての生活に適応していた。
 机の上もトレイに置いてあった携帯と車のキーを手にして、スーツのポケットにつっこんだ。
 彼の荷物はこれだけだ。
 愛用のコートをコートかけからさっととって、彼は理事長室を出る。
 すでに窓の外は暗かったので、電気をつけていた。
 まだ冬。春はほんの少しだけ遠かった。
 ぱちんと電気を消す。理事長室が暗くなる。マシンも完全に沈黙している。モデムのほのかな灯りだけがちらっと見えた。
 ドアを閉めた。鍵をかける。
 理事長室は、重要な書類が多い。
 また好奇心旺盛な生徒たちが覗きにきては大変だ。吉羅はそのことについては、しっかりと学んでいた。
 廊下は静かだった。
 放課後も遅い時間。
 金澤も仕事が終ったところをみると、音楽室を利用しているオーケストラ部などの部活も終了したのだろう。
 放課後。
 いい言葉だ。
 あの頃、放課後が楽しみだった。
 学校がつまらなかったわけじゃなかった。
 でも、放課後のほうが自由に弾けたし、好きなあの音、姉の音を聴くことができた。まだ元気だった頃の美夜の美しい音。
 そして、帰りを誘ってくれるきさくな先輩がいた。
 
 吉羅は少し笑った。
 おかしなものだと。
 この年齢にもなって、年甲斐もなく、放課後が楽しみになる時がくるなんて。
 静かな廊下を歩きながら、吉羅はポケットから携帯を取り出した。
 待ってくれている親友に、帰ろうと声をかけるために。
 
 
 <終 2008.2write>
 
 


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