選択科目の音楽の授業で、その曲を聴いた。
メンデルスゾーンの「無言歌」。
無言の歌。ことばのない歌。
放課後の教室で、あたしたちは時々キスをする。
結子と。約束をするわけでもなく、時々。
きっかけはほんとに事故だった。
結子は隣のクラスで、体育と生活科の実習の時は同じ授業を受けていた。
でも話したことはなかった。
すごい音を立てて、あたしと結子は体育館の床に倒れこんだ。
体育の授業でバスケの試合中だった。うっかり衝突してしまった。
一瞬なにが起こったかわからなかった。
「だ、大丈夫……?」
あたしの下から、声が聞えた。それが結子だった。
「あ、うん……」
あたしは答えた。
「立てるか!?」
慌てて体育教師がやってきた。
「あ、はい……」
あたしは立ち上がった。結子も立ち上がる。
バスケの試合中に、うっかり衝突してしまったようだった。
「そっちは大丈夫?」
あたしは彼女に言った。名前はまだ知らなかった。
「うん、大丈夫みたい。でも、その……」
彼女は黙りこんだ。
その間の意味がわかって、あたしも黙ってしまった。
「とりあえず、二人とも少し休憩しろ」
あたしたちの不自然な沈黙は、教師の采配によって破られた。
あたしはD組、彼女はC組。それぞれの陣地に戻った。
放課後、あたしはC組を覗きにいった。
「大丈夫だよー。足とかもなんともないし」
掃除も終った教室で、彼女は笑った。名前もすでに聞いていた。
でも痛かったねーと笑いながら話しているうちに、教室には誰もいなくなっていた。
「……あのね……」
結子が言いずらそうに言い出した。
「ん」
あたしは身構える。
「……キスしちゃったよね……?」
ぶつかって、倒れこむ瞬間に、確かに。
「ごめんね!」
結子が頭を下げた。あたしは慌てる。
「なんで謝るの?」
「だって……やっぱ悪いじゃない」
「なんでー、女の子同士だしさー、気にすることないって! 事故事故! それならこっちだって謝らないとならないし!」
「気にしてない?」
「ううん、全然。そっちは?」
「私も。びっくりしたけどー」
結子は安心したように笑った。
「よかった……気にしてたらどうしようかと思って」
結子が少し俯く。ストレートの肩までの髪が揺れた。
あ、きれい。
そんなふうに思った。
「気にするなんて。むしろ、気持ちよかったっていうか」
あたしはそう言いながら、つい、その髪を触ってしまった。さらさらだった。
「え?」
「気持ちよかったって言った」
「……私も」
次の瞬間、ふたりの唇が重なった。
それから、時々、放課後にあたしたちはキスをする。
ただそれだけの関係だった。
メールは交換することはほとんどない。一応アドレスは聞いているけど。
廊下ですれ違う時は、ちょっとだけ挨拶を交すだけ。
だけど、時々キスだけはする。
体育はバスケが終って、平均台がはじまった。
退屈なこの授業にみんなは、不満そうだった。
平均台の数は少ないので、順番待ちの時間が長い。
その日の授業でも、あたしは膝をかかえて、ぼーっと順番を待っていた。
丁度、C組のほうで、結子の番がまわってきていた。
結子はなかなか上手かった。
みんなが大抵失敗するターンもちゃんと出来ていた。背はそんなに高くない彼女の手足が伸びてきれいだった。
きれいだった。
その時、結子の隣の平均台から、ひとりの生徒が落下した。
「大丈夫!?」
結子が慌てて自分の台から飛び降りた。
落ちた生徒は怪我はしてないようで、大丈夫だからと言ってる声が聞えた。
もう、結子はいつも心配しすぎだから。
そんな声も聞えてきた。
結子が照れたように笑った。
見たことのない表情だと思った。
きれいだった。
「梓」
放課後の教室。結子がやってくる。
手には書道の半紙を丸めてもっていた。
「結子は書道とってるんだ」
「うん、梓は?」
「音楽」
そんなことすらお互い話したことがなかった。
「書道、けっこう面倒なんだー。音楽ってなにしてんの?」
「最近は音楽鑑賞」
「どんなの?、ベートーヴェン?」
「……メンデルスゾーンとか」
あたしたちは放課後、時々キスをする。
そこにはなにもなくて、ただの柔らかい唇があるだけ。
今日もまた。
音楽室にはレコードプレイヤーがあって、先生が「今日はレコードで」と言ってかけたのがメンデルスゾーンだった。
レコード。昔、小学校で触ったような記憶はあるけども。
流れてくるピアノの音。少しノイズがはいる。
ことばのない歌。
恋のないキス。
それでも繰り返し繰り返し重なる唇。
レコートは一度針を飛ばし、同じフレーズを何度も何度も繰り返した。
教師が止めるまで。
ことばのない歌。
きっと、誰かが止めてくれるまで止らないだろう。
恋のないキス。
<終>